8月20日に行われた高校生向けサマースクール2015の私の模擬授業「国境が変わると何が変わるのか―平和を科学する」での質問ついてここで改めて回答しておこうと思います。質問文は要約してあります。回答していく順番に特に意味はありません。「境界」「国益」「平和」などのテーマについては、またおいおい回答していくので、少々お待ちください。

質問その2
「故郷」の定義は何ですか?
「故郷」は主観的なものなので、科学的分析にはなじまないのではないですか?

回答その2
まず、主観的なものを科学的に分析できるのかということについて考えてみましょう。

結論から言うと、主観的なものでも、客観的にとらえられるようにすれば科学的分析が可能になります。

主観的なものの例として、「アイデンティティ」を挙げることができます。たとえば、「あなたは自分を何人だと思いますか?」というアンケートをとれば、「“日本人”と回答した人がx人中a人、“アジア人”と答えた人はx人中b人…」という結果が得られ、それはアイデンティティに関する客観的データとなります。こうした容易に数字で表現できるデータを「量的データ」と言います。

また、ひとりひとり時間をかけて同様の質問をしてお話を聞く「インタビュー調査」を行うと、「こういう時は自分を日本人と思うけど、こういう時は自分をアジア人と思うし、自分にとってアジア人とはこれこれこういう人のことだ…」などの回答が得られ、より詳しく複雑なデータが得られるかもしれません。こうした簡単には数値化できないデータを「質的データ」と呼びます。

「でも、他の人が尋ねたら別の答えをするかもしれないじゃないか」という疑問も出てくるかもしれません。たとえば、親の一方が日本人、もう一方が韓国人という人は、日本人から尋ねられれば「自分を日本人だと思う」と答え、韓国人から尋ねられれば「自分を韓国人だと思う」と答えるかもしれません。

しかし、これも重要な分析の対象となる現象なのです。「なぜ、同じ人に同じ質問をしても尋ねる人によって回答が変わるのか」という問いかけ自体が、社会学や文化人類学にとっては重要な研究テーマとなり得ます。

さて、本題となる「故郷」に話を移しましょう。

そもそも私が旧樺太住民(引揚者と残留者)の「故郷」の問題について関心を持つようになったのは、インタビュー調査を通してでした。残留者の方々のお話をうかがう内に、「この方々は戦前と戦後で同じ空間に暮らしているけれど、その社会はまったく異なっている」ということに気付くようになりました。

そこで、私は「故郷」という語を「生まれ育ったあるいは人生の多くの時間を過ごした地理的空間性を持つ社会環境」のように考え、自分の集めたデータを再検討しました。なお、ここでは「故郷」が複数存在することを許容しております。

その結果、残留者の多くの人々が戦前と戦後の社会環境をまったく違うものと認識していることが改めてわかりました。もちろん、私は残留者全員にインタビューをする「悉皆調査」をしたわけではありません。ですが、数十人にインタビューする「標本(サンプル)調査」によっても一般化は可能です。そして、そこから「故郷喪失」という言葉を導き出しました。

必ずしも私が調査をした全員が直接的に「樺太を故郷と思う」とか「私は故郷を喪失した」とか自ら表現したわけではありません。しかし、こうしたアプローチから「家族親族との別離以外にもこれらの人々は何か悲しい物を背負っている。それは何だろう?」ということを考えることが可能となります。そして、境界変動が人々に何をもたらすのかを分析することができるようになります。

「科学」という語はどうしても、自然科学的なものを想像してしまいますが、人文社会科学には人文社会科学なりの方法論があります。ただし、「客観的なデータから合理的な結論を導く」という点では共通しております。また、ガリレオ・ガリレイの「測れるものは測るべきだ。測れないものは測れるようにするべきだ。」、アイザック・ニュートンの「観察や実験の道具を誰かが発明するのを待っていては何も発見できない。」という精神は、人文社会科学にも共通していると言えるでしょう。

データの客観性の検証は研究に限らず、合理的な思考をするためには欠かせない行為です。こうした質問が参加者のみなさんから出たことに驚くと同時に、うれしく思います。

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